鎌倉彫 湯川

「塗師(ぬし)」とは漆塗りの職人、漆工を指す。根来塗、輪島塗…と、漆器を示すのに「漆」字は不要でただ「塗」と添えればよい。ところが例外がひとつある。「鎌倉彫」だ。

同様に漆器でありながら「塗」ではなく「彫」なのだった。しかしこの名称こそが鎌倉彫の由縁、特徴を端的に示していた。

そもそも鎌倉彫の創始はその名のとおり、鎌倉時代のことで当時、中国は宋朝の文化が禅宗という宗教のニューウェーブと共に迎えられた。先端の新思潮、伽藍建築や仏像彫刻、水墨画、磁器はもとより漆器や現代の茶道具の基になるものまでが宋からやってきた。
平安時代が唐の文化の強い反映であるのに対し、鎌倉時代は宋文化を輸入し交配することで多様な文化の新品種を開花させることとなっていく。 鎌倉彫はまさにその時代背景の中に出現したのだった。

宋朝の仏工、陳和卿(ちんわけい)が伝えたとされる紅華緑葉(色漆を重ね彫ることにより色彩の階層を現わす技法)。
堆朱(ついしゅ)、堆黄、堆黒、堆錦、沈金などがその時代の伝来とされるが、いずれにせよ鎌倉彫とは我が国の風土化、好みによる和様化として定着し継承されてきたのである。

鎌倉期の仏像彫刻は、円満典稚な趣をもつ定朝様(じょうちょうよう)とは異なり、運慶、快慶とはじめとする慶派にみられるような精神のめざめによる現実主義だが、じつに鎌倉彫とはその彫刻同様の刀彫によるものなのだ。
鎌倉彫は深い漆の奥行きと複雑な陰翳の律動を生み出す。

鎌倉彫清流を興した初代・湯川清山の時代とは武家社会崩壊後の明治。明治の西洋近代化政策とは逆に上層の家庭では婦女子の教育に茶道華道、長唄などが採りいれられた。じつに初代・清山の功績は、鎌倉彫を健全高尚な情操教育の一環として伝えた先駆的功績にもあった。

「目は盲なり、見るは心なり」というが、鎌倉彫は「目と手のかぎりなき悦楽」に遊ぶ。鎌倉時代、鎌倉の地で生まれた鎌倉彫。